日本遺産ストーリー
「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅
醤油の起源は、遥か中世の時代、中国に渡り修行を積んだ禅僧が伝えた特別な味噌に始まる。この味噌の桶に溜まった汁に紀州湯浅の人々が工夫を重ね、生まれたのが現在の醤油であるという。
醤油の醸造業で栄えた町並みには、重厚な瓦葺の屋根と繊細な格子(こうし)が印象的な町家や、白壁の土蔵が建ち並ぶ。通りや小路(しょうじ)を歩けば、老舗醸造家から漂ってくる醤油の芳香が鼻をくすぐり、醤油造りの歴史と伝統が、形、香り、味わいとなって人々の暮らしの中に生き続けている。
醤油の醸造業で栄えた町並みには、重厚な瓦葺の屋根と繊細な格子(こうし)が印象的な町家や、白壁の土蔵が建ち並ぶ。通りや小路(しょうじ)を歩けば、老舗醸造家から漂ってくる醤油の芳香が鼻をくすぐり、醤油造りの歴史と伝統が、形、香り、味わいとなって人々の暮らしの中に生き続けている。
ストーリー
日本人の味覚に染みわたる繊細で深い味わいと芳(かぐわ)しい香りを持つ醤油。紀伊半島西岸、紀州湯浅の地で、産業としての醤油造りが産声を上げた。仕込桶の中で醸成され、零れ落ちた最初の一滴は、やがて水面(みなも)に広がる波紋のように日本中に広まり愛用され、私たち日本人の豊かな食文化の根幹を担い、今日(こんにち)では『醤油=Soy sauce(ソイソース)』は、世界の人々に和食の文化と共に認められている。
湯浅醤油の始まりと広まり
醤油造りの始まりは、遥か中世の時代にまで遡る。鎌倉時代の禅僧覚心(かくしん)(法燈国師)が建長元年(1249)に宋に渡り、径山寺(きんざんじ)(現在の中国浙江省(せっこうしょう)にある径山興聖萬壽禅寺(きんざんこうしょうまんじゅぜんじ)などでの修行の傍ら、径山寺味噌の製法を習得し建長6年(1254)に帰国する。径山寺味噌とは夏野菜を漬け込んで作る嘗味噌(なめみそ)の一種で、今日ある金山寺味噌の祖である。覚心はこの製法を人々に伝授し、湯浅で盛んに作られるようになった。味噌を造る過程で、野菜から水分が染み出し桶に溜まる。それまでは捨ててしまっていたが、あるとき、その一滴を掬ってなめてみると何ともいえない芳醇な味がする。この旨味に満ちた汁で魚や野菜を食べれば、きっと美味しいに違いないと考えた湯浅の人々は、この汁をもっと作ろうと工夫を重ねた。こうして現在の醤油が生まれたという。
商業としては、天文4年(1535)に醸造家の赤桐三郎四郎が、100石余りの醤油を漁船に積んで大坂に出荷している。これをきっかけとして他の醸造家も競って他国に積み出すようになり、少なくともこの以前から湯浅で醤油が盛んに造られていたことがわかる。また、豊臣秀吉の小田原攻めに兵糧米を献上した赤桐家が、その恩賞として天正19年(1591)に秀吉より、大船一艘を建造し代々所有することを差し許され、これを醤油輸送用に充てている。近世に入ると、湯浅で生み出された醤油は、大海原を船で揺られながら房総をはじめ全国へと広まっていった。湯浅の醤油醸造業は紀州藩の特別の保護の下で繁栄を続け、享保年間(1716~35)には製造技術も大いに進み、藩外への販売網が拡張された。文化年間(1804~18)には醤油醸造業者は92軒を数えたという。明治初期に湯浅の町並みと浜の様子を描いた「湯浅図屏風」には、たくさんの醤油樽を大八車に載せて浜まで運び、そこから小船で沖に停泊している帆船に積み込む活気に溢れた様子が描かれている。
醤油の香り漂う町
醤油の醸造業で発展した町並みには、醸造業に関連する町家や土蔵が建ち並び、老舗の醤油醸造家から漂う醤油の香りが鼻をくすぐる。建物は華美な装飾を好まず質実剛健で機能的な造りを信条としている。町家の外観は、屋根は寺院でよく使われる丸い瓦の重厚な本瓦葺で、庇の先には幕板(まくいた)と呼ばれる雨除けの板が下げられる。これらは台風や雨の多い地域性による特徴である。醤油造りには諸味(もろみ)から搾り出した生醤油(きじょうゆ)を釜で煮る『火入れ』の作業などがあり、火災を恐れて建物の2階は壁や窓を漆喰で塗り固め、虫籠窓(むしこまど)や袖壁といった防火構造の意匠が見られる。1階の部屋の窓には木製の格子が使われている。
日本人が持つ豊かな感性が創り上げてきた和食の文化において、醤油の味わいは決して欠かすことが出来ない。醤油醸造発祥の歴史と伝統は、町並みに漂う醤油の香りと共に湯浅の人々の暮らしの中で受け継がれてきた。これからも醤油の香りはこのまちと共に生き続け、この先もずっと未来へと繋がっていく。